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2008/12/18 - ワイエス展



僕はその分野を学んでいる人間でありながら、展覧会やギャラリーには殆ど行きません。理由は色々とありますが、その内最も大きいのは面倒くさいからという何とも身も蓋もないものなのですが、まぁその"面倒くさい"と感じてしまう理由も色々とありまして。

で、そんな不精な僕が久しぶりに展覧会に行ってきました。渋谷のBunkamuraでやっているワイエス展ですね。アンドリュー・ワイエスは、僕にとってノーマン・ロックウェルに並ぶ、アメリカを捉える上での指標として、ある意味好きであり参考にもしている画家です。

それで早速行ってきた感想ですが、結論から先に書くと期待以上に"期待外れ"でした。

ワイエスといえばその卓越した技法に固有価値があるわけで、僕は今まで画集を通じてその妙技を見てきました。しかし実際に実物を目の当たりにしてみると、想像以上に技法それだけが目に入ってしまい、それ以上の何かが僕の琴線に触れることは無かったのです。

それは今回の展覧会が、殆ど水彩の習作しか来てなかった事にも少なかれ原因はあるでしょう。上に掲載したワイエスの代表作である『クリスティーナの世界』も、実物で来ていたのは水彩や鉛筆のラフスケッチのみで、完成版のテンペラ画は写真のみの掲載という何とも虚しいものでした。今回の展示は殆どがそんな調子だったな。

しかし、ならばテンペラがもっと来ていれば印象が大きく変わったのかと言われたら、そういう訳でも無かった気がする。展示のイマイチさも然ることながら、やはり一番大きいのは己と作者との立場の決定的なギャップから来る、感覚の共有の出来なさなのではないか。

僕なんて生まれも育ちも都会っ子であり、また目先の利益や快楽を最優先する生粋の俗物です。目まぐるしく変化し、一過性の事象に一喜一憂するのが言うなれば僕の世界です。かたや生涯に渡って自らの自宅と別荘という、二箇所の田舎の風景のみを描き続けているワイエスの世界なんてのは、僕からみたら卓越した技術を除いたら、浮世離れしたおじんの趣味にしか見えないわけです。

加えて技法しか見えてこないという部分においては過去の自らの予備校時代を想起させ、浮世離れの部分は現在の自らの周囲で学を共にしている者達を想起させる。目の前のアメリカの田舎の情景を眺めていると、沸々とそんな不快な思いしか浮かんでこなくて、結局それ以上得られるものは無いと判断して、後半は殆ど流し見して終えてしまった。

以上までが僕の個人的な"期待外れ"だった部分。しかし逆に期待以上だったのは、そんなものが実際には浮世では大変支持されている、そんな事実と自らの思いのギャップによって、かえって自己の輪郭をより明確に出来たという事。

ワイエスは日本でも人気で今回以外にも多くの展覧会が催されていますし、本国アメリカでは国民的画家と呼ばれるほどの地位にあります。そしてこのように扱われるというのは、それが紛れも無く多くの人々にとって必要なものだからだと思うのですね。必要だから求める。必要だから支持する。これは正しく"力"そのものでもあります。

そして今度僕が何か表現する立場になった場合、この"力"を何とか利用できないものか。前述した通り、ワイエスの作品は僕にとってそれほど必要なものではありませんでした。少なくとも技法を除いてね。しかしそれは僕にとって必要なものは何であるかを逆説的に示しているとも言えます。

それは多分ワイエスの作品が持ち得ている要素とは相反するものなのかもしれない。しかしそんな相対するものも、元を辿れば目の前にある1個数の作品から生じてきたもののはず。それを再び1つの物とする事は出来ないものか。もっと露骨に言ってしまえば、多くの人が必要とするものを提供しつつ、そこに自らの主張を入れ子に出来ないものか。余談ですが、僕がアニメ的な美少女や、またはそんなシチュエーションを描くのも同様の理由から来ているのです。

そんな事を考えさせてくれたって事は、案外期待以上の収穫はあったのかもしれない。自分にとって期待外れであるが故にね。逆にこれがもし、本当に僕の個人的な欲求にそのまま応えるものだったとしたら、多分その時点で思考は止まってしまったのではないだろうか。完全に必要なものなら、それ以上何かする必要がそれこそ無くなってしまうからね。

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