Top Diary Review Text Gallery Link

2010/03/17- 犯れ!


いやぁ~、とんでもなく更新滞っていますねぇ。ちょっと滞りすぎですねぇ。これ以上ほったらかしにしていると、次第に更新する事それ自体に気後れを感じてきてしまうので、そろそろ手を打たないと不味いと思った次第です。どうもお久しぶりです、NaBaBaです。

HPはこんな風に一ヶ月近くもほったらかしにしてしまっていたのですが、Twitterの方にはちょこちょことつぶやき続けておりました。しかしTwitterは良くないですね。気軽に更新できるからって最近頼り気味になっていたけれど、しかし過去のつぶやきはどんどん彼方へ追いやられてしまうので、記録として機能しない。これが本当のつぶやき程度のことならば、風化が早い分どのメディアよりも気楽に発言できる素晴らしいツールなのですが、備忘録としては全く役に立たないのです。

これは僕としてはとても不味い。自分がその時感じた事や思った事、それに基づいて絵を描いた場合は、やはり後でそれを参照できる環境に記録していかないと自らに定着しない。全く自分の為にならないのですよ。という事でHPの必要性を改めて感じた所で、ここ最近TwitterやPixivにアップロードした落書きのおさらいをしていきたいと思います。尚全部の作品をいっぺんに解説すると相当文章が長くなってしまいそうなので、何回かに分けて書いてきたいと思います。

とりあえず始めはこの『犯れ!』という作品からなのですが、その前にまずここ最近の僕の落書きの量産という、その行動それ自体の理由から書いていかなければいけません。そもそも話は二ヶ月前の『Message』にまで遡ります。あれにまつわる一連の行為が終わった後、次の作品の構想を始めて大体固まってきているのですが、如何せんこの技法は僕にとってとても難儀なものなのです。

『Message』のテーマの一つは"感覚"で絵を描くことの否定でした。色彩感覚、空間感覚など絵画を含めた表現全般は、数多くの感覚の鋭さ、言い方を換えるとセンスの良さを求められます。そしてこの感覚やセンスは理屈や言葉では表しきれないものがある。

芸術が神聖である所以の一つはここにあると思うのですが、かく言う僕はこの感覚だとかセンスだとかいうものに物凄いコンプレックスを感じている。理解できないし、また持ち合わせていない。でもそれが確かに"ある"事は分かるもどかしさ。デフォルメが抜群に格好良い、色彩が半端ない、構図がバッチリ決まっている等など。そういう作品は世に沢山あり、自分も真似てみたりだとか文献を漁って合理的に理解しようと試みたりするわけですが、しかし感覚を持っていない者が幾ら真似ても様にはならないのです。

だから自分は持ち前の感覚そのもので勝負するのはもう無理だ。センスが元から無い以上、残された道は徹底的に頭を使って"感覚"と呼ばれているものを合理的に再現していく以外にない。こうした考えから生まれたのがあの『Message』なわけです。

それが具体的にどういうものであったかは、その解説ページを見て頂くとして、ともかくこういう理念が根底にありますから、作画作業は一般的な絵画的仕事は一切しない、もう殆ど製図そのものです。ここからここまでが何センチで角度は幾つでといった具合で形を決めていくので、使うのは手というよりも頭、それも左脳ばかり。本来僕は数学は嫌いな人間であり、この作業そのものは個人的にかなりの苦痛を伴います。結果の為に過程の快楽性を全て犠牲にしているのです。

そういうわけで『Message』が出来上がった時は、その過程の快楽に対する欲求がとても高まっていて、それが今日まで落書きを連発している根底にあるのです。しかし最早今の自分には従来型の絵でその内容を保障できる自信はなく、だからこそ"落書き"。ただ現在唯一の頼みの綱である『Message』の作風も、ハッキリ言って一発芸みたいなものなので、次はまだしもそれ以降続けられるものだとは思えない。だからその時はまた新しい技法を編み出すか、或いは王道で従来型の描画法にいずれ戻らなければいけない。それを考えると、ああ憂鬱になってくるんだなぁ。


この『犯れ!』という作品自体はニュージーランド航空が作った『The Cougar』というCMから影響されたもので、要するにクーガーと呼ばれるおっかないオバちゃんが、若いお兄ちゃんを食っちゃうよという、ただそれだけの話です。恐らく一昔前の自分であればここに大層なコンセプトというか、バックストーリーを付けた事でしょう。しかし今はそれすらも馬鹿馬鹿しくなっています。

今思えば作品のバックストーリーやコンセプトに拘っていたのも、自分のセンスの無さをフォローする為だったと言えます。言わば理論武装ですね。しかしその極みだった『Big Father』の大失敗で、この方針も再考せざるを得なくなった。確かに『Big Father』はバックストーリーはしっかり固めたつもりだったが、逆に画面はPixivフェスタという環境における人目を気にして呆れるくらい没個性的なものになってしまった。そして幾ら理論武装をしても、画面そのものに魅力がなければ全く効果を成さない事にも気づいてしまったわけです。

コンセプトがとても重要であるという考え自体は今も変わっていません。しかしそれが十分に発揮されるのは、それを載せる対象が既に魅力的である事が前提条件です。そしてその魅力は"デッサンがしっかりしている"だとか、"描きこみが凄い"だとかいう低次元の基準からは生まれ得ない。もっとその時代や環境に呼応した、同時代的、同時間的で、形態が掴めない繊細なもの。つまりそれが感覚でありセンス。センスが理屈より先に立つ事はあってもその逆はあり得ない!その事実を知って愕然としましたね。

そして自分のそのコンセプトやらがまた陳腐なんだ。僕の家族が云々かんぬんなんて、そんな身の上話をわざわざ絵を使って聞かされて誰が喜ぶのか。または社会が何だ、日本が何だとわざわざ絵の中で語る必要があるのか。コンセプトとは既存の価値に対する意識的な揺さぶりかけであり、そこに身の上話だとか社会派的メッセージ加わる必然性はない。そう考えると今までの自分の拘りには何の価値も見出せなくなってしまった。

だからこの『犯れ!』にも従来的なコンセプト、バックストーリーはないのです。ただ何描こうか考えあぐねていた時に、丁度あのCMを思い出したからってだけで、クーガーって危ないよね!皆も気をつけよう!みたいな啓蒙をするつもりは一切無い。只何故このCMを思い出した時、それを描こうと決断したのか、その基準については語れるところは結構ある。そしてこの何故自分はそうしたのかという、事後的な自己分析というか自問自答こそが、僕のこの一連の落書きのもう一つの動機とも言えるかもしれない。しかしこれに関してはこれ以降の諸作品にも関わってくる話なので、続きは次回にしたいと思います。


All trademarks and trade names are the properties of their respective owners.
Copyright (C) BaNaNaBoNa 2008-2010 All rights reserved.