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2010/04/11- 見せまくり


『Heavy Rain』の感想です。『Uncharted 2: Among Thieves』と並んでやりたかった作品で、PlayStation 3購入の動機の一つであります。初出が06年E3のTech Demoでしたから、それから実に4年を経ての発売となりますね。いやぁ、待った待った。

僕がここで取り上げるまでもなく、世界的に高く評価され、販売本数も100万本突破、Peter Molyneux等著名なゲームデザイナー達からも賞賛されて正に絶好調な本作。早くも今年のGOTY候補に上がり、既存のあらゆるジャンルに該当しない革新的な作品とまで言われていたりしますが、僕個人としてはどうだったのか。それをこれから書いていきたいと思います。

まず本作の概要について簡単に説明すると、『Heavy Rain』はフランスのスタジオであるQuantic Dreamが開発した物語主導型のアドベンチャーゲーム。主人公の内の一人であるEthan Marsは、二年前に二人の息子の内の一人を事故で亡くし、立ち直れないまま妻やもう一人の息子のShaunとギクシャクした生活を送っていた。そんなある日Shaunが行方不明になり、後にそれが世間を騒がしている折り紙殺人鬼による犯行である事が判明する。Ethanを含めた四人の主人公達は、各々の立場から折り紙殺人鬼と対峙し、事件の真相を究明していくというストーリー。


本作の最大の特徴はシューティングだとかRPGだとかいったゲーム的要素が極めて乏しい代わりに、映画的なカットシーンを多用しほぼそれのみで進行していく点にあります。プレイヤーが行える操作はキャラクターの移動とかいった極々基本的な事を除くと、せいぜいQTEと選択肢分岐くらいしか特徴的ものがなく、その分物語の面白さで鑑賞者の興味を惹きつけていくデザイン。その物語も正統派のスリラー映画そのもので、一般的なゲームとは全く毛色が異なる。今日映画的ゲームという言葉を良く聞きますが、本作はそれらとは違った、より直接的な意味で映画的体験や感動に限りなく近いゲームであると言えるでしょう。

近年のゲームのラインナップを見ても本作の様な作品は他になく、開発者もこれはアドベンチャーゲームではない全く別の新しい体験だと言っています。が、しかしぶっちゃけて言えばこれは結局アドベンチャーゲーム以外の何物でもなく、最近のメジャーゲームの中では全く見られなくなっただけで、過去を振り返ると前例となる作品は幾らでもあり、そういう意味で新しさはありません。

例えばQuantic Dreamの前作の『Fahrenheit』は、五年前の作品にして根幹のデザインは本作とほぼ同じだし、これ以外にも五年前からそれ以前の作品には、やる事よりも見ることを優先した所謂ムービーゲーという物が沢山あった。日本でも『やるドラ』何てものがありましたし、そういう意味では本作は新しいどころか寧ろ懐かしさすら感じさせる。 しかしそれが悪い事かというと全然そういう訳ではなく、確かに単純な目新しさはないけれども、今の時代に敢えて再びこの作風を持ち出してきたのは現代のゲームの体験性という課題に、鋭い示唆を与えている様に思います。


それに基本は昔のままとは言え、やはり現代なりの変化はあります。まずは単純にグラフィックスその他映画的演出の再現力が、この手のアドベンチャーゲームの全盛期とは比べ物にならないほど向上しているという事。これは上の『Fahrenheit』のSSと比べても一目瞭然であり、キャラクターが表情を含めてまともな演技が出来るレベルです。これと同水準のグラフィックスの作品は他にも幾つかあるので決して史上最高というわけではありませんが、カットシーン主体な為ゲームのグラフィックスがどれだけ映画の体験に近づいたのかという事について、他のどの作品よりもビビッドに感じられます。

そしてQTEも『Fahrenheit』を元にしつつも洗練され、細かい工夫があちこちに見られますね。QTEと言えば『Fahrenheit』を含め昔は指定されたボタンを正確に押す事を求められ、失敗したら始めからやり直しみたいなパターンが大半でそれがストレス要因になっていましたが、それに対し本作は例え入力に失敗しても殴った殴られた程度の展開の変化が起こるだけで、ゲームはそのまま続いていくので意識が中断される事がありません。またQTEの適用範囲もアクションシーンに限らず、コーヒーを飲むとか壁にもたれ掛かるとかいった日常の些細な仕草にも細かく組み込まれていて、更には入力の一部にはSIXAXISによるモーションコントロールが導入されている場面もある。こうした工夫の複合によって、まるでキャラクターの演技を自らが紡いでいる様な面白さがあります。

確かに本作は依然としてカットシーン主体のゲームであり、そこから沸き起こってくる面白さの大部分は観る事に拠るものであってやる事ではありません。しかしそのムービーゲーとしての前提条件さえ受け入れられれば、その見応えは余りあるし、QTEも従来の問題点を排除し、"観る事"の楽しさに"やる事"の楽しさを、最小限且つ最も効果的に導入出来ている。例えるならばムービーという素晴らしい御飯にQTEという素晴らしいフリカケが掛けてある、そんな主従関係が作り出せているわけです。


この本作が示した"見せる事"と"やらせる事"のバランス配分の大胆さ、しかもそれが過去に否定された手法で作られているという事は、近年の体験性を売りにしたゲームに対する、痛烈な批判と皮肉になっているように思えます。前回紹介した『Uncharted 2: Among Thieves』のアクティブシネマもそうですが、そもそもここ数年の作品が体験性だとか双方向性を殊更重要視しているのは、その前世代のゲームがしばしば単にカットシーンを垂れ流すだけだったり、良くても安直なQTEの導入留まりだったりと、つまり本作や『Fahrenheit』の様なムービーゲーだった事に対する批判があったわけです。映像を観るだけなら映画でも出来る、ゲームであるならばそこにプレイヤーが積極的に関与できるものでなければならないってね。

こうした姿勢は現代のトレンドになり数々の名作を生み出す事になりましたが、最近ここでもまた次第に視覚情報の増大化と、それに釣り合わないゲームプレイの貧相さという、前世代で湧き上がった問題が再浮上してきています。確かに以前と比べて映画的体験とゲームプレイの組み合わせは上手くなった。単純なQTEは否定され、プレイヤーが関与できないカットシーンも無くなった。しかし逆に映画的体験、それも主に視覚的なものと、それをゲームに組み合わせる事に躍起になるばかりに、大本のゲーム部分それ自体の面白さや革新性はなおざりにされて、仕舞いにはそのその存在自体が形骸化しつつある様な状況になってきています。

『Heavy Rain』とはこの様な状況に対して、だったら例え昔ながらの作風になったとしても、足踏み状態なげームプレイは大幅にカットして"フリカケ"程度にしてしまい、本当の意味で映画的体験のみのゲームにすればいいじゃないかと宣言した作品なのだと思います。ここでは長時間に渡るカットシーンや正統派のQTE等、過去否定されてきた技法が堂々と使われている。しかし逆に本当にそれのみに徹しているのでかえって清清しく、余計な要素が一切無い為他の主流の作品よりもよっぽど素直にゲームを楽しむ事ができてしまう。これはとんでもない皮肉ですよ。


理想を言えばゲームとはやはり"やらせる事"の革新性でもって新たな体験を切り開く様なものが望ましいと僕は思っています。それに本作は意地悪く言えば、グラフィックスが良いと言ったってやはり本物には敵わないわけで、この程度のインタラクティブ性ならばプリレンダ、或いは実写の映像でも良いじゃないか、と言われても何も反論できない側面がある。それってつまりゲームとしての唯一性が弱いという事。本作はゲームが向かうべき進化のかたちでは無い。

それでも本作は、現世代のゲームが追い求めている体験性の歪みを逆説的に証明しているという意味で、必要悪としての同時代的必然性がある作品だと思います。僕としては本作に触発されて、今後「こんなもんゲームじゃねぇよ!これが本物のゲームという奴だ!」という感じで、ゲームの体験性や"見せる事"と"やらせる事"という課題に対し、より一歩進んだ作品が出てきてくれればと思っています。

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