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2009/07/16 - Big Father
前回のエントリーの続きです。前回は全体的な感想について厳しく書いたものの、実は全く人の事が言えず、僕自身もまた今回の展示で多くの課題を突きつけられる事になりました。それで己への戒めも込めてあのような論調になったわけですが、今回はその自分やその作品にまつわる事を中心的に書いていきます。
とは言え僕は今回に限らず、作品を公開する時は常にその解説も併せて行ってきました。ただそれでも今までは想像の余地を奪う事に対する懸念から、あまりにも具体的過ぎる説明は避けてきたつもりです。しかし今回はなるべく膿を出し切って次に移行したいと考えているので、今までは踏み込まなかった領域にまで解説の手を広げる事にしましょう。タイトルは『Big
Father』。
1.基本的な考え方について
そもそも僕がこのような解説をしたがるのは、物事の価値を推し量るにはそれそのもののみではなく、それにまつわる文脈を理解する事が絶対不可欠という考え方があるからです。また人は物事の文脈を知りたい、教えたいという欲求を備えているものでもあり、それに基づく人から人への伝聞が文化、文明の継承や発展に繋がり、歴史を形作る。この点に関してはインターネットを利用している我々にとっては最早説明不要だと思いますが、僕はこのような人の心理を活動を通じて肯定したい。これが僕が作品とその解説を常にセットしている理由。
更に突っ込んで書くと、作品は解説という形で事後的に文脈を付随されなくとも、それ自体が既に文脈によって殆どの要素は形成されている。いや正しくは鑑賞者が持つ文脈によって、作品の見え方や価値等の殆どあらゆる要素は査定される。
例えば今流行りでPixivでも大人気の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の登場人物である式波・アスカ・ラングレーのイラストがあるとします。しかしそこで描かれているものが式波・アスカ・ラングレーである事、またそれによって発生する価値を理解するには、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』及びそこに登場するアスカというキャラクターが、名前も設定も新シリーズは旧シリーズから変化している、という文脈を自らが保有していなければいけません。それがなければ対象となるイラストを旧シリーズ準拠の惣流・アスカ・ラングレーだと誤認してしまいかねないし、そもそも『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の文脈を保有していなければ、対象のイラストが何であるのか、そこにどんな価値があるのかすら殆ど認知する事は出来ない。
上記の例に限らず全ての事物はこのような知覚プロセスによって成り立ち、特に人の認知に意図的な作用を与えようとする美術に於いては、鑑賞者と作品の主従関係は絶対的なものだと僕は考えます。逆に言えば個人の文脈、また個人と個人が集まった集団がその中で保有している共通文脈、更に拡大して社会や国家が保有する共通文脈を理解し、それと作家を的確に繋ぐ為のインターフェイスとして作用させる事が、良い作品の条件であるとも考えています。
なので僕が作品を鑑賞する時はその点を最も重要視しているし、作品を作る時もまた同様。僕が作品の中で同時代的な社会風刺、古典美術の引用、オタクサブカル的なビジュアルを登場させるのも、自分の作品の対象がそういう文脈を保有している人達であり、またその人達により強い効果を発揮させるためです。そして作中でそれら三つの文脈の統一を図る事で、間接的に鑑賞者の内にある三つの文脈に対しての統一も目指す。そして鑑賞者が文脈を把握する上で、その精度を更に上げる為に作品の解説も併せて行う。これが僕の作品及び活動全般に言える基本精神です。
2.『Big Father』について
前振りを長々とした所で、やっと本作の話題に入ります。本作のテーマは我々日本国民の父性である国家の激震による不安と、僕の父の父である祖父の介護に揺れる家庭への不安を表したダブルミーニング。この二つの規模は両極端ですが、共に父性に対する不安という点で、僕は同一のものと感じています。
特に後者はここでも何度も話題に出しているように自分への影響力は計り知れなく、これを描いていた時は正に心も身体もそれに持ちきりと言っても過言ではない状態でした。母親が家出するって事件もあったしね。その為僕は今まで以上に家族というものについて考えるようになった。
正直に言うと引っ越す前、今居る実家と前済んでいた所とを行き来する二重生活を送っていた時は、僕は結婚したくないなと思っていたんですね。時が経つごとに祖父や祖母が衰えていくのが目に見えて分かる。それにつられて自分の家庭が疲弊しているのも分かる。そして食事の度にそれらへの愚痴を母や父から延々と聞かされる。こんなにも不幸せになるのなら、そして将来的に自分が誰かを不幸せにするのなら、いっその事家庭を持たず、独りで生きて独りで野垂れ死んだ方が良いんじゃないかと思っていました。
しかし引っ越して母が家出して、その欠けた部分を自分がフォローしたり、または父が仕事を削って介護に充てている様子を見て考えが変わった。この問題は誰かからの悪意によってもたらされたものではない。寧ろ各々が皆最善を尽くそうとしてた結果なのだ。祖父も祖母も父も母もそして自分も各々の人生の中で最善を尽くそうとしている。だが皆世代というズレがあり、そのズレが個々人の努力ではどうにもならないからこそ、このような不幸が起きるのだ。だから強いて何かを責めるのであれば、そのようなズレを本来正すべき役割があるにも関わらず、その機能を果たしていないシステムを責めるべきだ。
このような不幸を後世で起こさないためには、まずは家族という最小単位の社会の中で、己の責任をしっかりと全うする事だ。具体的には今は孫や息子としての責任を果たし、将来的には自らが家庭を持って父や祖父になった時、またその時々の責任を果たしていくという事。そのような姿勢で挑まない限り、今起きている不幸は終わらない。その上で広い意味で皆の父性であるべき、地方自治体や国というシステムがその役割を果たしていない事に対しては、然るべき意思表示をすべきである。そのように考えるようになりました。
そのような考えを基にし、男と女の番い、伝統的日本家屋から高層ビルへの変移、ダリの『十字架の聖ヨハネのキリスト』等などのイメージを駆使して形にしたのが本作となります。
しかし問題なのは、そういった文脈が殆ど画面から伝わらないという事ですね。それは単に画面が余りにも一般論に終始していて、それが具体的に示す方向性や、その中に込められている情動を鑑賞者が感知出来ない。
この点は僕にとって毎回悩ましい問題で、実は僕が上記したテーマはやろうと思えば幾らでも画面上で先鋭化させる事はできる。また僕の作品を支持して下さっている方の多くは、そういう意味で振り切れている作品を好まれている様でもある。
でもそれって結局自己満足だと思うんですよね。お互い近しい文脈を持ち合わせている者同士ならそりゃ理解しあうのも容易ですが、究極的には作品は自身のホームグラウンドの外に拡大していかなければいけないものだと思う。そしてその為にはテーマを何らかの形で一般化したり、対象への歩みよりも必要でしょう。
しかし今回はそれをやりすぎた!いくら一般化するとは言え、それで本来自分が伝えようとしていた主題が曖昧無味なものになってしまっては本末転倒にも程がある!また更に不味いのは、軽薄な内容に陥りつつも、心のどこかではそこからズレたものを求めている捻た根性が、作品の立ち位置をより一層中途半端なものにしてしまっている。どっちつかずで振り切れていない、なんて地味な絵なんだろう。
余談ですがこの反省を基に描いたのがこの間の『逃れられるものなら!!』なわけですが、これは本作とは全く逆の意味で問題がある。この両極を是正しようと努力しているのですが、未だ具体的な解法は見出せないまま右往左往している最中です。
3.展示について
既にそういう気持ちでいたので、僕自身の展示やそれによりもたらされる成果については展示前からかなり悲観的でいました。そして予想通り見事に自分の作品は地味だった。周りの空気にすっかり食われていましたね。しかもその周り、つまり展示自体の質がどう見ても最低レベル。その最低な展示に食われている自分って一体何なんだと茫然自失になってしまいました。
加えて名刺やポートフォリオ等の用意が殆ど1日で済ませた付け焼刃だったのも反省すべき点でしょう。忙しくて用意する暇がなかったというのは言い訳に過ぎないし、もっと早め早めの準備を心がけるべきだった。
但しこのような己の体たらくを除けば、作家を含めた色々な方と話が出来たのは収穫でした。僕はネットでの人との交流がないものですから、オタクサブカル側の人達の話を直に聞けたのは大変貴重。この辺はもっと根掘り葉掘り聞きたかった。
しかし手の平返すような物言いで恐縮ですが、皆何故ああもお互い褒めてばかりなのか。性格にもよるのでしょうけど、僕は何かを無条件で気に入る何て事は殆ど無いですよ。Pixivでならそういう方はせいぜい片手で数えられるかどうかってくらいで、心の奥底では「こんなもん量産的で無個性なイラストじゃないか!」とか「何も考えてないなぁ」とか「違う!そうじゃない!」とか、そんな事ばかりですよ。
ただ僕自身人の事言えた様な作品を作っていないし、こういう事全部赤裸々に言ってしまっては社会性もクソもないのは分かります。でもお互い多かれ少なかれ共通した感覚を持っている者同士なんだし、もう少し心のセーフティを取っ払っても良い気もします。僕だって自分の作品が万人受けする等とは全く思っていないし、それはPixivでの評価が全てを物語っている。また仮に万人受けしたとしても、それはそれでやはり文句がある方は居るわけでしょう。そういう部分をもっと聞きたかった。
4.今後の展開について
ここまで色々と振り返ってきましたが、そろそろまとめに入りましょう。まず展示については前回のエントリーや、今回描いたように総合的に見て、達成感や満足を得られる内容ではなかった。自分の展示が良くなかったという点もあるし、周りも良くなかった。また良いと思った部分は殆ど展示が終わった後の打ち上げでも十分代用可能な事だったので、尚の事展示自体の必然性が感じられなかった。なので企画に明確な変化が無い限り、今後は参加する事も観に行く事もないでしょう。
そして自分自身の作品も同様で、そろそろ手詰まりの状況になりつつある。ただこれに関してはアイディアがありまして、細かい部分はまだ詰めている段階で詳しくは言いたくないのですが、油彩とCGを交互に行き来する作品になるとだけは言えます。
最近はずっとCGという手法の中で絵を描いてきましたが、その中で幾ら描いても、その中で幾ら複数の文脈の統一を図っても、どうしても表現手法によるバイアスは掛かってしまう。そこで敢えて二つの異なる手法を行き来する形態にする事で、鑑賞者の中でそれらが統一された地点を見出してもらおう。そういう作品を作ろうと思っています。
当面はそれに専念して、出展は二の次。余り乱発し過ぎても自分の為にも相手の為にもなりませんし、まずは内省に励んでそれである程度のまとまりが出てきたら、その次を考えます。
5.制作時に参考にしているもの
折角なので、この際僕が作品を作ったりまたそうでない時も、どういうものを見てどういうものを参考にしているのか紹介してみようと思います。僕が仮にTumblrを使ったら、こういうものばかりポストする事になるんじゃないでしょうか。
ダリの『十字架の聖ヨハネのキリスト』。黄金比と遠近法を駆使したダイナミックな作品。今回僕はこれを日本の父性のイメージとして引用しましたが、本来ならばそれは適切ではない。しかし実際今日の日本人の文化やアイデンテティーの有り様は、多分に欧米かぶれ的。実際僕も美術の専攻領域は西洋美術に偏っていて、日本美術は殆ど門外漢だと言って良い。そんな中で、では我々が本当に拠り所とする父性ってのは何処にあるんだってのを喚起するために、敢えてこれを引用しました。
北朝鮮の工業地帯の写真。一応現代の様子だが、日本人から見ると殆ど昭和初期から戦後復興期のイメージに近い。そこでちょっと強引だが、このある意味幻想的な風景を伝統的な日本家屋に置き換えて、作品に取り込む事にした。しかしねぇ、折角素晴らしい素材なのにそれを活かしきれてないんだよ!この煙が立ち込め遠方が霞掛かっている様子!それが欲しかったのに何だあの体たらくは!
作品のイメージにピッタリという事で、本作を制作中はずっと流していた曲。元々は『Grand Theft Auto IV』及び『Watchmen』の劇中に使われているのを聴いてその存在を知り、後日アルバムを買って聴いていたので、最近までこのPVの存在は知らなかった。それで見てみたら自分の作品のイメージにとてもそっくり。いやぁこうも喚起されるイメージって一致するものなのかね。
ここからは直接本作に関係があるわけではないけれど、作品を作る上で常に気にしていたり、僕にとって影響力が強いものの紹介。まずは『The Bridge』というこの映画。アメリカはサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを約一年かけて定点観測し、そこから飛び降りた自殺者にスポットをあてたドキュメンタリー映画です。
映画は橋の映像と自殺者の遺族のインタビューのみで淡々と紡がれていく。その余りに冷静で余りに現実主義的な視点に驚かせられると共に、それ故に自殺問題の現状がありありと見えてくる。僕は後にも先にもこれ以上にドキュメンタリーとしての強さ、、残酷さを感じた映画を観た事が無い。
この恐るべき視点や姿勢は到底真似できるものではないですが、同時に見過ごす事もまかりならぬ。ある種の極みの1つとして、今でも時々観返している映画です。
ロシアのプロパガンダポスターもまた、僕に強い影響を与え続けている存在。元は『S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl』や『You
are Empty』等のロシアゲームを遊んだ事に始まり、その後ロシア構成主義を知ってからは『戦艦ポチョムキン』だとかStenberg兄弟等の有名どころを見漁り、すっかり虜に。
社会主義を啓蒙せんが如き力強さと、その内の抑圧を感じさせる物暗さは、僕が己の作品に求めている要素でもあります。このHPに掲載している作品でも初期のものはここからの影響がモロに見受けられ、最近は昔ほど直接的ではないにせよ、依然主題の選び方や構図の取り方等で大きな影響を与えられ続けています。
僕にとってある意味最も大きいのは、やはり秋葉原通り魔事件を差し置いて他に無い。当時の衝撃は凄かった。他の人にとってもそうだった。このような不謹慎なコラも沢山作られた。しかしこの事件がネットでは大々的にこのような形で扱われたという事実が、この事件がどこの側にある問題なのかという点を如実に証明していると思います。
この事件が起こるまで、僕は秋葉原にある種の幻想を抱いていた。それは"秋葉原に居る間は、アニメやゲームに触れている間は現実から逃れる事が出来る"という幻想。秋葉原はそれまで"若者文化の中心地"だとか、或いは"劇場"等と様々な言い表しがされてきたが、僕自身は"ヴァーチャルリアリティの体現地"だと思っていた。秋葉原へ行けば日々のしがらみから解放される。画面の向こうの楽園とも言えるヴァーチャルな世界に限りなく近づける。僕に限らず多くの利用者が大よそ似た意識を持っていたと思う。
しかし実際はそうではなかった。派遣問題という現実的な問題が他でもないここで爆発し、そして多くの人が傷つき、殺された。それから暫くして秋葉原は一見元の体裁に戻ったように見えるが、こないだ事件から1年が経っても尚大勢の参列者が事件現場に訪れたように、深層の部分は未だにこの事件を引きずっている。
社会情勢も同様。この事件から約半年後に金融危機に端を発する派遣切りが行われ始め、1年経った今では経済はガタガタ、国政は揺れに揺れている。インターネットを見ていても一気に社会、政治、経済の話題が多くなった。事態はこの事件から改善するどころか悪化するばかりだ。
このような現状に対し、1オタクとして、1絵描きとして何らかの意思表明出来ないのか。そんな青臭い使命感が、僕が絵を描く上での原動力になっています。
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