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2009/08/03 - 乗り遅れ


『Mass Effect』クリア。最終的にプレイ時間は40時間強。一見ボリュームがあるように見えますが、殆どは暇を持て余す移動や中身の無いサブミッションで占めているので、肝心のメインクエストの量は平均的なアクションゲームと同じ程度。いや、寧ろストーリーテリングの観点から見ると、メインクエストはこの尺では圧倒的に足りていない。

理由は明らかで、それは要素が沢山あるにも関わらずそれらを制限された時間内でまとめる能力が乏しかったからに他なりません。特にストーリーを紡ぐ上で重要な要素であるキャラクターの描写は殊更問題点が多い。今回はそんなキャラクター、特に主人公の扱いに重点に置いて書いていきたいと思います。

本作では多数のキャラクターが登場しますが、その中でもとりわけ重要なのが主人公と6名のパーティキャラクターでしょう。6名にはそれぞれのバックストーリーがありますが、彼らの内2名をクエスト毎にパーティに組み入れて行動を共にする事で、それぞれ親密度が上がっていき、それに応じて彼らの素性が分かってきたり或いはガールフレンドになったりとストーリーが変化していく様になっています。

しかしそれは建前上の話で、実際には殆ど実現できていません。基本的にキャラクターとのコミュニケーション手段がとても機械的と言うかゲーム的で、その不自然さから感情移入が出来ない。面子がどうであろうと、また親密度がどれだけあろうともそれが反映されるのはクエストとクエストの間の自由時間中における、各キャラクターとの立ち話のみ。肝心の数値上親密度を上げる機会となっているメインクエストでは必要最低限の受け答え以外の会話は発生しないし、サブクエストはそれすらなく終始無言のまま。そしてクエストが終わった後まるでお遍路の様に各キャラクターの居場所まで顔を出して、そこでの会話のみで親密になったかどうかを確認する。


こんな事務的なやり取りではとてもじゃないが"親密"を表しているとは言えないでしょう。クエストに同行させれば親密になると言うのであれば、数値じゃなくて実感としてプレイヤーが感じられるように、その現在進行形で親密になっている様子を描くべきです。またサブクエストだからといって、このような生のコミュニケーションが途絶えるような事はしてはいけない。ゲームは体験としてはメインもサブも関係ない地続きで統一された世界なわけですから。

加えて言うと同行させる面子を何時でも自由に選べるというシステムも、ストーリーテリングにおいてはかえって逆効果になってしまっています。つまりただでさえコミュニケーションが出来る機会が限られているのに、その対象をプレイヤーの恣意だけで選ばせてしまうと、余計注視すべき点が定まらなくなってしまって深い感情移入が妨げられてしまう。そうなる位ならばいっその事パーティ編成は序盤で固定してしまい、代わりにその決められた枠組みの中で物語を深めた方がよっぽど素直に感情移入できると思うのですが。

しかしこれらの問題を差し引いても一番問題に感じるのは、やはり肝心の主人公の扱いでしょう。ジョン・シェパードというハッキリとしたキャラクターが始めから設定されており、にも関わらず主人公の言動は全てプレイヤーが選択するシステムになっており、にも関わらず三人称視点を採用している。本作にはキャラクターエディットモードもあるので一概には言えないのですが、メインであるジョン・シェパードというあらかじめ設定された主人公を扱うモードだと、まるで匿名型主人公と特定個人型主人公の特性を精査しないまま、それぞれの要素をまぜこぜにしたかのような違和感があり、とても不快です。

2004年の『Half-Life 2』の成功以降、主人公とプレイヤーをイコールの関係にしつつも、"まるで映画のような"と比喩できるような深い物語を体験させようとするゲームが一気に増えました。イコールとはつまり当時の方法論から言えば、主人公の個人的なプロフィール、言動、人格の一切を廃し、プレイヤーはそんな極めて匿名に近い主人公を寄り代として自分のプロフィールや言動や人格を投影する事で、あたかも自身がゲームの中の世界に居るかのような高い没入感を得る事が出来るという理論。97年の初代『Half-Life』が初めて提唱し、続く04年の『Half-Life 2』で高度なキャラクター表現を共に用いてその実用性を改めて証明したことで、それから07年に至るまで多くの亜種が生まれたのです。

『Mass Effect』もこの理論を意識している事は当然言うまでもありません。シェパードの物腰は基本的に受動的で、そういう意味で『Half-Life』の主人公であるフリーマンに近い。そしてそこから更に会話内容を全てプレイヤーに選択させるようにすれば、更なる没入感が得られるはずという打算からこのようなシステムになったのでしょう。

しかし本作はそれを実現するにあたって2つもミスをしています。1つは三人称視点に固定してしまっている事で、主人公の顔や姿が必要以上に登場すると、その時点でプレイヤーは自分とは別の、個別の肉体をもった他人としての主人公を自覚せざるを得なくなる。

そしてもう1つのミスは、このように外見的個別性を強く意識させる作りであるにも関わらず、主人公の内面的個別性は描かず全てをプレイヤーに投げてしまっている事。いや、正しくはプレイヤーがゲームを始める前までの主人公の外見的、内面的個別性は詳細に設定されているにも関わらず、始めた後の内面的個別性は全てプレイヤーまかせになってしまっていると言いましょうか。

主人公がプレイヤーとは明らかに異なる外見的個別性がある以上、その内面にも個別性を見出そうとしてしまうのは自然な事ですし、ましてや主人公にはゲームが始まる前までのプロフィールがしっかりある。物語上その事についても度々触れられるし返答も迫られるのですが、しかしプレイヤーはそれを見たことも体験した事もないので返答しようがありません。

そもそもその返答や会話の選択肢すら、一見プレイヤーの自由意思を謳ってはいるけど、結局のところ開発者が意図したようにシナリオが進んでいかなければならないので、その内容は多分に偏っている。もし本気でプレイヤーに言動の自由を許す事で高い没入感を得たいのであれば、『Project Natal』のようにプレイヤーが自在に発言して、その一字一句をゲーム側が読み取り、それに対して適切な出力をするぐらいの事が出来ないと実現不可能です。その盲点に気づかず、出来合いの主人公に出来合いの選択肢を用意すれば簡単に感情移入出来ると思い込んでいるから、匿名型主人公と特定個人型主人公のいずれの強みも発揮できず中途半端なレベルに留まってしまう。


実は『Mass Effect』が考えの拠り所としているであろう『Half-Life 2』自体がこの問題点を指摘され、現在では第一線程その理論を否定しつつあります。つまり高い没入感を得るために今まで主人公が持っていた主権をプレイヤーに移譲した。しかしその状態ではプレイヤー=主人公はゲームの世界に対し、殴る撃つボタンを押す、選択肢を選択する程度の原始的なコミュニケーション手段しかとれない。その為一方のグラフィックスやNPCの感情表現、或いはドラマティックなストーリー等などの表現力が上がっていくにつれ、プレイヤーとゲームとの間で不和が生じてしまう。

この問題を解決する為、現代の最前線のゲームは『Half-Life 2』のスタイルを基本としながらも、徐々に主人公の内面的個別性を濃くしていく方向性に変化しつつあります。以下毎度の様にそれらの作品を見ていくことにしましょう。

『Portal』と『Cryostasis』、『Call of Duty 4: Modern Warfare』は今から挙げる作品群の中では一番『Half-Life 2』の理論に近い、というよりも寧ろ初代『Half-Life』に近いと言えましょう。『Half-Life 2』のように主人公の周囲の表現力だけがやたらと向上し、そのコミュニケーションの不和から違和感を生んでしまうのであれば、初代『Half-Life』がバイオハザード状態の研究所を舞台にして無言を肯定していたように、作品の舞台設定を殆どコミュニケーションが求められない状況にすれば良い。

『Portal』は『Half-Life』シリーズを手掛けたValve直々の作品なので、原点回帰的な趣が最も強いですね。登場人物は主人公と舞台となる研究所を一元管理するGLaDOSというAIのみ。そのAIですらゲーム終盤を除いて、ただ単にアナウンスで主人公に語りかけるだけ。主人公は勿論完全に匿名型。しかしこのとてつもない孤独感が主人公のモルモットらしさをこの上なく強調していて、舞台設定やプレイヤーと主人公の関係性を肯定できています。

『Cryostasis』は『Half-Life 2』のコミュニケーションの不和を逆手に取った作品で、舞台は難破船で『Half-Life』や『Portal』と大して変わりがありませんが、本作の場合Mental Echoという自分の周囲で起きた過去の出来事がフラッシュバックとして映る演出が特徴的。過去の映像なので目の前でどんな出来事が起きてもてもプレイヤーは干渉できないし、逆にそうする事で干渉できなかった『Half-Life 2』のシステムを逆説的に肯定していると言えるでしょう。また干渉できる機会を少し設ける事でその貴重性を強調し、例え従来の殴る撃つボタンを押す程度でも、プレイヤーにとってはかけがえのないものとして感じられます。


『Call of Duty 4: Modern Warfare』は多数のキャラクターが登場し舞台も目まぐるしく変わる等、上記2作品の様な禁欲さとは一見無縁です。しかし本作の場合主人公達を生粋の軍隊として描く事で、その禁欲さというか無言を肯定しています。しかもゲームを主導するのは主人公の上官にあたるキャラクターで、プレイヤーは彼らが言うように行動していけば万事問題ない作りになっている。つまりディズニーランドの様なアトラクションと全く方法論が一緒なんです。ディズニーランドのアトラクションは言わば人が受身で体験するタイプの見世物としての究極系ですから、それをゲームに応用すればプレイヤーは無言のままでも高い没入感が得られるだろうと考えたのでしょう。演出をこれでもかと注ぎ込む正にに資本主義ならではの力技って感じですが、同時に目の付け所はかなり鋭い。


続いて匿名型主人公と特定個人型主人公の差異や効果をより意識してストーリーを組み立てた作品としては『BioShock』と『S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl』が挙げられるでしょう。またこの2つはまるで示し合わせたかのように表現の共通点が多いのも面白い。フリーローミング、素性不明の主人公、そしてその主人公自身が核となっているストーリー。

素性不明というのは主人公を幾ら匿名に設定しても、プレイヤーは主人公の内面的個別性を想像しようとしてしまう事に対する対処案でしょう。しかもそれに留まらずゲームを進めていくことで、徐々に主人公の素性が分かっていき最終的にプレイヤーが予想だにしないような真実が明らかになる様になっています。『BioShock』はこうした意図に対して、開発者がインタビューで「今までのゲーム的な常識を覆したかった」とハッキリと解答しており、その"今までのゲーム的な常識"とは『Half-Life 2』的な方法論を指しているのはほぼ間違いないと思います。

無口な主人公が何の疑いも抱かず、周りのキャラクターに指図されるがままにドアのキーを探したり敵を倒して行く事で進んでいく。そんなの主人公とプレイヤーの関係は正常ではない、そんなお約束に塗り固められた状態はリアルな体験だとは言わせない。開発者自ら「プレイヤーに対する最大の侮辱」と称する例のAndrew Ryanとの対峙シーンでは、プレイヤーの自由を意図的に奪ってみせる事で、これまでのゲーム体験の問題性を批判的に表しています。


また本作はこの侮辱を経て主人公の素性や本当の目的が判明してからが、プレイヤーにとっても真のゲームスタートだとも語っています。そこから察するに本作が説いた事とはつまり、今までの『Half-Life 2』理論の不自然を是正するには、主人公をプレイヤーの寄り代とするだけでなく、主人公自身の人格、物語、大儀が必要で、こうしたプレイヤー側の事情と主人公側の事情を上手く並列化させる事で、初めてゲーム中の体験を正当化し、より自然で高い没入感が得られる。そういう事なんじゃないかと思っています。

恐らく『S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl』も同じ志で、それが図らずとも両者の表現方法を一致させたのでしょう。これら2作はゲームの世代の節目であった2007年において、正に前世代から次世代にシフトしていくその過程を作中で描いた作品だと言えます。

最後に紹介する『The Darkness』になると、主人公は完全にプレイヤーとは別に自身の意思を持ち、それを発言するようになっています。また特に『The Darkness』で面白いのは一人称と三人称を使い分けている点でしょう。ゲームの大半を占める一人称視点の時は、基本的に『Half-Life 2』のように主人公は無口に徹しています。しかしその表現だけでは描けない領域、主人公の内面的個別性やゲーム中の行いの理由等は、三人称視点に切り替えて主人公の姿を堂々と見せた上で、他のキャラクターとの会話シーンやローディング中の独白シーン等の方法を用いて説明しています。

この方法は一見ダブルスタンダードのように見えて実際プレイヤーがゲームに没頭している瞬間と、ローディングのようにふと現実に戻る瞬間やプレイヤーとは別の存在としての主人公を感じる瞬間を見極めて、巧妙に2つの見せ方を織り交ぜています。こうして外から見た主人公と内から見た主人公の2つの見え方を照合する事で、物語や主人公のゲーム中の行い、プレイヤーに課せられた役割を正当化できているように思えます。


また物語前半でガールフレンドが殺されるシーンでは『BioShock』と同じようにプレイヤーの行動の自由を意図的に奪っている。『Half-Life 2』理論の限界を『The Darkness』も理解していて、それを自由を奪うという形で強調して見せる事で、それを批判すると共にその"コミュニケーションの取れなさ"を、このシーンの主人公のやるせない立場に置き換えている。この事からもやはり同時代的な意識の強さが感じられます。


これらの作品のいずれにも共通している点は、『Half-Life 2』を強く意識しながらもその限界を見定め、それを超えるために様々な工夫を凝らしている点でしょう。別の言い方をすると『Half-Life 2』が掲げていた理想論に終始せず、且つその最終的な理想に近づくために、現代の技術力が許す範囲ギリギリの現実的妥協点を探っているとも言えます。そしてこれらの作品はその試みに一定の成果を発揮している。

『Mass Effect』に話を戻すと本作は2007年の中にあって、こうしたパラダイムシフトの接点を多く持ち合わせていたにも関わらず、そのどれもが前時代的な認識に留まっていたというのが最も残念な点でした。主人公の表現に限らず、時間対効果に対する認識やフェイシャルアニメーションに機軸を置いたキャラクター表現等など、これまで見てきた多くの要素が当てはまる。惜しいと言うか、勿体無いと言うか、後一歩と言うか、とにかく残念な作品でした。

2010年には続編が発売されるようで、前作のセーブデータを引きつぐという面白い試みが用意されているようですが、僕が求めたいのはやはり前作の時代錯誤的な問題点を改良する事。そしてより現代的な高い没入感が得られる作風に発展させて欲しい。前作から3年が経過しているので求められる領域はよりシビアになりますが、果たしてクリア出来るのか。逆にクリアできなければ遊んでみる気にはなれませんね。

尚今回は試験的にこのように他作品の紹介や比較を交えるスタイルで書いてみました。いつも通り作品単体で何処が良い悪いと論じるのも必要なのですが、時には作品と作品の相関性やパラダイムの移ろいを捉えていく視点のレビューも必要です。また一流の作品とそうでない作品との違いはこうした時代の牽引力があるかないかであり、またそれが果たせているかどうかが真に問われるべき点のようにも思います。

とはいえ全ての作品がこのような観点で定量化できるものでもなければ、そもそも僕自身にそんなに持ちネタがないのでそんなに頻繁には出来ないのですが、これからもたまには今回のようなちょっと違う切り口からレビューをしていきたいです。

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