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2009/10/15 - メジャーへの逆説的提案


今月はインディーズ強化月間!という訳ではありませんが、『Zeno Clash』に続き今度はベルギーはTale of Tales開発の『The Path』をプレイ。童話の赤ずきんちゃんをモチーフにした、一種のアドベンチャーゲームです。

そもそもこの作品をやり始めたのは、最近になって発売されたここの最新作である『FATALE』を遊んだ事に端を発します。『FATALE』は初期『Silent Hill』シリーズのキャラクターデザイン等を努めた佐藤隆善氏がアートディレクターとして参加しており、その関係から前々から注目していた作品でした。それで実際遊んでみたのですが、これに正当な評価を下すには同スタジオの前作をしっかり把握する必要性を感じ、それで以前Steamで購入したまま積んでいた『The Path』を再び引っ張り出してきたのです。

しかしまずそもそもTale of Talesって何ぞや、って所から話を始めるのが妥当でしょう。このスタジオは前述した通りベルギーに拠点を置いており、メインスタッフは02年の発足当時から二名のみという正真正銘のインディーズ。数多のインディーズスタジオの中でも、とりわけここは所謂一般的なゲーム文法や作法を持たない作品作りが特徴的で、寧ろアート系列の文脈により近く、一種のインタラクティブアート的な作風と認識しておいた方が誤解が少ないかと思います。

既に何本もの作品をリリースしてきている同スタジオですが、日本では一部のメディアにも紹介もされた『The Graveyard』が比較的有名なのではないでしょうか。かく言う僕もこの作品からこのスタジオの存在を知ったのですが、しかし正直な話この作品自体は全く評価していません。

内容は後方視点で老婆を操って墓場から教会のベンチへ行き、ベンチに座るともの悲しい音楽が流れ出し、聴き終わった後来た道をまた戻ればそれで終わりというシンプルなもの。或いは中身がカラッポとでも言うべきか、一応実験作品という触れ込みだったわけですが、どうにも実験、アートという言葉を免罪符に手抜きしているようにしか思えなかったのですよ。アートと言えども作品として成立させる為に相当の情報量は必要なわけで、娯楽作品との差はそれが直接的であるか否かでしかない。にも関わらず、あたかもアートと呼べば何も描かなくても相手が勝手に想像してくれるみたいな、そんな思い上がった根性が見えてならなかったのです。


こうしたスタジオに対する第一印象の悪さから、今年の三月に発売された『The Path』も一応購入したものの、今日この日に至るまでそのままお蔵入りになってしまっていたわけです。まぁでも今回『FATALE』繋がりで再び手に取れたのは運が良かったです。正直このスタジオの実力は完全に見くびっていましたが、本作は『The Graveyard』とは見違える位に良くなっていました。もう、始めから本気だせっつーの。

気を取り直して『The Path』に話を移していくと、本作はこれまた前述した通り童話の赤ずきんちゃんをモチーフにしており、更に『本当は怖いグリム童話』みたいな感じの死と不条理が溢れる作風になっています。この手の作品は他にも『American McGee's Grimm』とか、『Fairytale Fights』とか幾つも先例があるのですが、本作がそれらと一線を画すのはユーモアさが微塵も無く、徹頭徹尾シリアスタッチであることでしょう。エドワード・ゴーリーの絵本のノリに近いと言えば、より想像がし易いかもしれません。

まずゲームの大まかな流れから説明していくと、本作には六人の赤ずきんがおり、その内一人を選んで進めていく事になります。ゲームの最大の目標は原作同様おばあちゃんの家に行くことですが、本作の場合愚直にただおばあちゃんの家に向かうだけでは何も起きず、失敗とみなされてしまいます。『The Path』というタイトルも示している様に、ゲームを進める為にはおばあちゃんの家へ向かう道の左右に広がる森の中へ、寄り道していく必要があるのです。

森の中には様々なオブジェクトが点在しており、これらを調べていくのがここでの主たる目的。オブジェクトに近づくとキャラクターが自動でインタラクトしていき、ちょっとしたイベントと短いダイアログと共にインベントリの空きが一つ埋まります。要はこの要領で出来るだけ多くインベントリを埋めていけばいいわけですね。


森の探索中は絶えず不穏な空気が流れており、白いワンピースの少女が木々の間を走り去って行ったり、画面にノイズが走ったり突然女性の呻き声みたいなのが聞こえてきたりととにかく不気味。インタラクトしていくオブジェクトも鳥の死骸であったり使用済みの注射器であったりとこれまた怪しい。

一通り探索し必要なイベントを見終えると、最終的におばあちゃんの家へ辿り着く事ができますが、中は寄り道せずに来た時の状態から一転してとても禍々しい様相へと変貌しています。そして道なりに奥へ進みおばあちゃんの部屋があるべき所へ着くと、突然ドガッて音と共にブラックアウト。何が起きたのかは判然としませんが、死にまつわる事だと想像するには難くない。しかも何とここでゲームは終わってしまうのです。

でも本作的にはこれで成功。この後最初のキャラクター選択画面に戻ると先ほど選択した子はいなくなっており、残りの子も同じ流れで進めていき、破滅的な結末を迎える度一人また一人と減っていき、最後の一人が居なくなるまでそれがずっと続きます。本作は全編に渡って直接的な表現は排されており、プレイヤーは断片的な情報から出来事を想像するしかありません。ある意味全く訳が分かりませんが、他のゲームを例に挙げると、『Silent Hill』からゲーム要素を全て省き、その雰囲気や演出のみを最大化させた感じと言えば、結構すんなりと腑に落ちるかもしません。

そもそも『Silent Hill』というゲームは、ゴシックホラーとジャパニーズホラーとデヴィッド・リンチ的な不条理さを掛け合わせたかのような世界観や、フランシス・ベーコンから影響を受けていると言う異形のクリーチャー等など、それ自体がアートへの意識がとても高い作品でした。またこの作風の影響下にあるゲームは『Condemned: Criminal Origins』にしろ『Cryostasis: Sleep of Reason』にしろ枚挙に暇がなく、『The Path』はその中でもとりわけ露骨。森での探索やそこでの出来事は『Silent Hill』における霧がかかった街の探索の置き換えと言えるし、異界と化したおばあちゃんの家なんてまんま『Silent Hill』の裏世界。記事の始めにも書きましたがその後『FATALE』で佐藤隆善氏と合流したり、前々から氏のファンだったと公言している辺り最早確信犯でしょう。


もう殆どオマージュの域にある分、多くのフォロワーが『Silent Hill』の様式を表面的に真似ているだけなのに対し、本作はその点はかなり忠実に捉えられていて、完成度が高いことには違いない。しかしその反面元々の『Silent Hill』の作風留まりという印象を受けるのも事実で、新しさや革新性を感じられるわけではありません。尤も最近は本家の方が完全に迷走してしまっているので、『Silent Hill』が最も輝いていた頃の作風の継承作としての意義はあるかもしれませんが。

僕は寧ろそれよりも本作のゲーム性の方に注目したい。しかしここでゲーム性と言うのは少々御幣があり、正しくは没ゲーム性とでも言いましょうか。最初の方のTale of Talesの解説でも触れた様に、本作も他のこのスタジオ作品同様ゲーム性と呼べそうなものが極めて少ないのが特徴的で、せいぜい森の中でのオブジェクト探索がそれっぽいと言えるくらい。後はもっぱら見たり聞いたり感じたりする事の方が主流です。

しかしそのゲーム性を極端に排したデザインにしたって所にこそ、本作の重要性があるんじゃないかと思います。例えば先の『Silent Hill』なんてのはその様式や雰囲気こそ高い評価がされているものの、ゲーム的な部分の面白さは大した事ないって言うかハッキリ言って酷い。時にはそのゲーム性の劣悪さが、雰囲気を楽しむ際の邪魔にすら感じる事もありました。

またこれは『Silent Hill』だけに限った話ではなく、近年のより映画的になっているゲームが抱えている共通の問題でもあります。特に商業作品は何だかんだ言って映画的な演出や雰囲気と、ゲーム的な要素をある程度両立させなければいけないというジレンマがあり、どっちか片方のみに振り切ると言う事は出来ていません。しかし本作にはそのような囚われるものがない事もあってか、思い切ってゲーム的要素をバッサリ捨て去っており、この事によって余計な要素が省かれ、演出や雰囲気それのみを直接享受できるようになっているのです。

またゲーム性を排した事で、今まで常識だと思われていたゲーム的規範に対する価値転倒が起きているのも尚の事興味深く、その中でもHUDの扱い方は特出して面白い。HUDというものは本来プレイヤーに必要な情報を伝達する手段であって、故に求められるのは簡潔さと確実さです。しかし本作のHUDはそういった明快さは全く無く、比較的分かり易いのはインタラクトできるオブジェクトに近づくとその図像がうっすらと残像のように画面に映ったり、一度立ち寄った特別な場所への方角を示すアイコンが画面の縁に表示される事くらい。後は画面の縁で白と黒のモヤモヤみたいなのが動いていたり、絵の具の跡や動物の足跡がランダムに画面に映ったりといった感じで、もう殆どエフェクトと化してしまっています。


僕としてはそれだけでも従来のHUDとしての意味や価値を解体しているという事で十分面白いと思ったのですが、更に凄いのは実はこれらは従来的な意味でのHUDとしての役割もちゃんと担っているという事なんです。僕も始めは本当単なるエフェクトだとしか思っていなかったのですが、暫く遊んでいるにつれ段々とその法則性や示している意味が分かってきます。どれが何を示しているのかという事はここでハッキリ言うと、これから遊ぶ人の楽しみを奪ってしまうかもしれないので控えさせてもらいますが、何はともあれこのHUDとしての本来の役割とエフェクト性のバランスの取り方は絶妙で素晴らしい。近年商業ゲームの領域では没入感の向上の為にFading HUDという方法を取るのが一般的になっていますが、中には本作のようにエフェクトと半分同化させてしまう方法もあるのですね。

作品全体を通して言える事は非直接的な演出や雰囲気にしろ、非ゲーム的な構造にしろ、非HUD的なHUDにしろ、何にしても従来のゲーム的な規範の否定若しくは無視によって作られているという点です。こうした特性から大衆受けは決してしないだろうし、この作風がのままメジャーゲームで通用するとも思えない。しかし冷静に捉えてみると、それらの要素がある意味今日のメジャーゲームが抱えているデザイン上の諸問題に対し、逆説的な提案や解答を示している様にも見えるのが面白い。

これが果たして現代的意識の高さからきたものなのか、或いは単純にアートゲームを作ろうとした結果こういう特性が付随してきただけなのかは分かりません。しかしいずれにしろ本作がインディーズでなければ到底成立し得ない作風を取っているのは確かで、それがかえって対極に位置するメジャーゲームについてまで考えさせる内容になっている。こういう問題提起が出来るのってインディーズゲームとしてとても理想的で素晴らしい事だと思うし、この辺の感覚を掴む為に『The Graveyard』では敢えてああいう中身カラッポな内容にしたのであれば、あながちその実験と言うか度胸試しも無駄ではなかったという事なのかもしれません。

前回までのエントリーで取り上げた『Zeno Clash』もそうですが、インディーズの作品って結局のところ表層的な見た目の奇抜さこそあれ、意識の持ちようはあくまでも従来の規範に沿った物が多く、本当の意味でインディーズとしての唯一性を発揮できている作品はごく僅か。そんな中本作は、他と同様見た目が奇抜ですが、寧ろある意味見た目だけに全要素を傾けた事によってその唯一性を獲得できている作品と言えるでしょう。

一応『The Path』の感想はここまで。気に入った作品なので後々別途レビューを書くかもしれませんが、とりあえず次はいよいよ『FATALE』の話に移ります。

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