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2009/12/28- 一度知ったらやめられない


『Avatar』を観てきました。元々Twitter用に感想を書いていたんですが、長文になってしまったのでこちらに掲載。寧ろTwitterを意識していた分ここのいつもの文章より簡潔かも?『Avatar』は現代(人間)から原始(ナヴィ)への転換を描いた作品ですが、テーマとしているのは実は全く逆、現代(アナログ・リアル)から未来(デジタル・バーチャルリアリティ)へのパラダイムシフトでしょう。

下半身不全の主人公が脳波リンクを使ってアバターという人造身体を擬似操作するが、それを用いて関わったナヴィの文化に心酔し、人間としての生活から決別する。ナヴィの文化は一見原始的ですが、しかしこれを作り物の映画として引いて見た時、それはフルCGで作られた極めてハイテクな世界であり、セット主体で描かれる人間世界の方がローテクなのです。

一旦このハイとローの関係の逆転を知覚すると、作品に込められたメタファーが次々と見えてくる。"アバター"というタイトルとその存在自体がネットにおけるアバターの寓意の様にね。そしてこうした図式によって本作が主張するのは"ハイとローは分かち合えない、一度デジタル・バーチャルリアリティの世界を知ったらもうアナログ・リアルには戻れない"です。それはあたかも農業革命や産業革命の様に、情報革命と言われて久しい今この時代も、我々はとっくにそこに足を踏み入れていてもう二度と前には戻れないのです。

しかも本作はわざわざ最新の3D立体視映像のテクノロジーを見せ付ける、という舞台装置まで用意してそれを主張している。この立体視映像にはその凄さを見せ付ける事で"もう前には戻れない"感を観客に感じてもらう為もあるだろうし、3D眼鏡を装着するという行為自体が作中で主人公達がアバターを通じてナヴィを疑似体験する事と掛け合わせられているのだと思います。

この主張は多分に理想主義的だし、3D立体視映像自体にまだまだ技術的な問題があって現実とのギャップを感じなくもありません。しかし劇場で見るという行為、3D眼鏡をかけて見るという行為まで計算に入れて、映画というメディアが持つ舞台装置を限界まで駆使した本作は、寧ろその姿勢によって映画という枠から一歩出たリアルな表現作品と言っても良いでしょう。

更に本作はこうした主張をしつつもハリウッド映画としての娯楽性や世界最強のテクノロジーを完備し、尚且つインディアンやイラク戦争等アメリカの負の歴史を描いた社会派的側面と、自然は大事というエコ的側面をも併せ持っている。この両立はトリプルA的神業であり、押井守監督が「こちらがやりたかった事を全部やられた。完敗だった。」と言うのも納得です。

押井監督絡みで言うと本作は『イノセンス』や『スカイ・クロラ』が描ききれなかった『Ghost in the Shell』のその後を描ききった作品でもあります。『Ghost in the Shell』で主人公は現実とバーチャルの軋轢に悩み続け、最後にバーチャルへ融合する所で終わりますが、『Avatar』では融合するしないの葛藤はぶっ飛ばして、もういきなりナヴィに変身。それでもうこの世界に踏み入ったからには戻れないよねと開き直る。作中葛藤に割かれている割合がとても少ないのも、もう今の時代がのんびり悩んでいる次元には無い事を示しています。

ただ僕が本作の主張で気になったと言うか賛同しきれないのは、過去と未来は分かち合えない事を絶対が付くくらいに強調して描いている点。言い換えるとこれは二項対立、完全懲悪の図式であり、一見原始への理解が描かれているようで結局どっちが優れていてどっちが劣っているかって話に終始しているに過ぎません。つまり幾ら情報時代になりインディアンやイラク戦争を反省し、環境問題に気を使っても、本質的には何も変わっていないという事です。僕は現状まだ人間は自らの身体無くして生きる事が出来ない以上、何処かでその身体性と折り合いをつけなきゃいけないと思っているし、それを踏まえて両者の融和を目指して作品を作っているのだ。

何にせよ『Avatar』は凄い作品なのは間違いありません。観るのであれば映画館で、それも3D版を観ましょう。ゲーム版はどうしようかなー。内容的には凄くゲームにし甲斐があると思うんですけど、ゲーム版がそれを活かせているようには見えないんですよね。

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